2008-02-13 第169回国会 参議院 国際・地球温暖化問題に関する調査会 第2号
オストポリティック、東方外交と呼ばれたということです。 仏独間の和解というのは、協力のモデルということで見られるようになりました。例えば、この二国間の教科書委員会というのができたんです。韓国と中国との間のような、同じような話が日本との間であるというふうに伺っています、教科書問題ということで。六年間、私、ソウルのドイツ文化センターで働いていたのでよく承知しております。
オストポリティック、東方外交と呼ばれたということです。 仏独間の和解というのは、協力のモデルということで見られるようになりました。例えば、この二国間の教科書委員会というのができたんです。韓国と中国との間のような、同じような話が日本との間であるというふうに伺っています、教科書問題ということで。六年間、私、ソウルのドイツ文化センターで働いていたのでよく承知しております。
ブラント西ドイツ首相が辞任したのは、ギョーム事件という、これは、個人秘書ギョームが東側のスパイであったことが判明して、東方外交の輝かしい業績の中で彼は辞任したんです。どういう情報がギョームに行ったかということは問題ではなくて、スパイが身辺におったことがわかり、疑惑が生じる、国家の機密が流れるのではないかという疑惑の中で、普通の民主主義国家の公人は潔く辞任しなければならない。
そしてこの最大値も、一九七二年のあのノーベル平和賞をとったウィリー・ブラントの個人的な人気その他が重なった、いわば東方外交の成果、特殊要因でございます。平均は大体五から七、つまり小選挙区における多数派と、そして第二投票における比例代表制との差というものはそのぐらいでございます。 そういたしますと、やはり政党であれば当然政権をねらうということは、これは政党の本旨でございます。
そして、一九七二年の十二月に、例の西ドイツのブラント外交、ブラント首相の東方外交というものが成功いたしまして、東西ドイツの間に基本条約というものが結ばれてお互いの存在を認め合うということになった。そうしますと、その成立を待っていたかのようにこれらの条約が次々に結ばれていったわけでございます。
だから、ドイツが東方外交を進めてやってきたやり方と日本の日ソ交渉というのは非常に違うわけですね。その点、外務大臣、どうですか。つまり、今あなたは歯舞、色丹返還は既成事実だ、国後、択捉が本格交渉の実質対象だ、こうまで言っているわけです。違ったのですね。
七〇年代のプラント政権が東方外交を進める、これは前にもこの委員会で私はやりました。そして、ハルシュタイン原則やなんかを乗り越えていったわけです。さらには、ポーランドとは教科書の見直しもやっていたわけです。そういうものを積み重ね、そして独ソの首脳会談は何遍も何遍も開かれてきたわけです。この三十五年間、何回ですか、日ソは。鳩山、田中、そして今度ですよね。
○中山国務大臣 戦争によって国土を分割された西ドイツが、一つの大きな理想に向かって東方外交を展開してきたことは、委員のおっしゃるとおりだと私は思います。
しかし、これは七〇年代のドイツのブラント政権の東方外交というのが、つまりソ連、ポーランド、東ドイツとの間に国交関係を正常化をし、さらに不可侵条約をやるなど進めてきたことがCSCEに至ったわけです。
大臣御承知のように、マレーシアは東方外交を展開している国でありまして、日本を見習わなければいかぬということで、非常に日本を尊敬して外交の中心に据えておるところなんです。
しかし、統一に当たってコール首相にしてもワイツゼッカー大統領にしても、我々はヒトラーの罪を背負っていく、そういうことを明確にしながら、つまりヨーロッパにおける信頼関係をつくることには、七〇年代のブラント政権の東方外交以来、それを積み重ねてきているわけです。
私はやはりヨーロッパにいたしましても、西ドイツが東方外交を進めた、この間申し上げた点です。今日のヨーロッパの大変化というのは、七〇年代におけるドイツ社民党のブラント氏の東方外交というのが、封じ込め政策以上の大きな出発点だったと私は思うのです。そして率直に話し合っているわけです。電話でも話ができるぐらいになっているわけです。
あるいは、さらには七〇年には、当時ドイツ社民党のブラント首相が、非常な反対があった、つまりドイツ社民党の中からも離党も出たのです、離党も出ましたが、ブラント首相は東方外交を進める。そして、ソビエトとの武力不行使条約、あるいはポーランドとの間のこれを決めたわけです。これはもう当時のコール副首相も猛烈に反対したわけです。そして、今言いましたように、ドイツ社民党の離党者もありながら乗り越えてきた。
こういう状況の中で、先生御指摘のように、ブラントの東方外交とかいろいろなものが積極的に行われて、ヨーロッパの共通の平和の家というヘルシンキ会議が持たれる過程がございましたけれども、現実に私が昨年の九月に国連総会におりましたときに、ゲンシャー西ドイツ外務大臣との会談の予定が実は四十分おくれました。そのときに、私はゲンシャー氏と会ったときに、ゲンシャー氏は私にこう言いました。
ですけれども、やはりヨーロッパにおける動きというものが一つの参考になることで、ヨーロッパというのは非常に最近劇的な動きがございますけれども、現在の軍縮ないし信頼醸成措置の動きの前提となりましたのはやはりヘルシンキの欧州安全保障会議であり、その欧州安全保障会議を可能にいたしましたのはまさに西独の東方外交だったわけでございます。
ちょうど今来日している西ドイツのシュミット元首相、この人は首相当時ソ連に敵のイメージを持つべきではないということを言い続けて、いわゆる東方外交を展開して見事に成功させた人であります。この政治の手法というもの、ある国を、率直に言うとソ連とか北朝鮮とか、こういう国を敵と見て、それに対して対抗的な姿勢をとっていくという外交、政治のやり方というのは私は稚拙ではないかという気がいたします。
西ドイツはコール保守党政権ですら新しい東方外交をやろうとしておる。特に経済面でそっちの方向へ行こうとしている。こういうときに、日本外交、相変わらずゴルバチョフの言うことは、あれはもう宣伝にすぎない、だまされちゃいかぬよということだけでいいのかどうか。
そういったものを前提としてやはりその抑止というものも可能でございましょうし、その西ドイツの立場からいういわゆる緊張緩和、東方外交というものが可能になっているというふうに私どもは見ております。
ヨーロッパの方はそれよりも早く、ブラント首相が東方外交を、アメリカの相当圧力がありましたけれども、ブラント首相は東方外交を進めていくわけですね。
その点でいいますならば、東方外交を進めてまいりました西ドイツの社民党の党首でありますブラント氏に対してレーガン大統領が会見を拒否をしたということは、今日のレーガン大統領が世界のリーダーとしてその点は非常にまずかったんじゃないかな、私はこう思います。
西ドイツの東方外交、それから全ヨーロッパ安全保障協力会議、中部ヨーロッパ兵力削減交渉、それから米ソ間の中距離核兵器制限交渉、それから戦略核兵器削減交渉などがそれであります。で、そうした努力が大きな成果を上げたとは言えませんけれども、少なくともその話し合いそのものは東西関係の悪化防止に役立ってきたと思います。それからまた幾つかの協定もできているわけであります。
なかでも特徴的なのは、東方外交を進め経済制裁に批判的な西独との貿易が往復で三八・一%増、同じく米ソ間にあって独自の外交を進めるフランスとの貿易が四二・三%増と大きく伸び、また第二次大戦後東西間で中立国とされ制裁措置を講じえないフィンランドとの貿易が五〇%増、同様の立場にある中立国・オーストリアが二五%増と、これまた刮目すべき伸びを示した。
そこで、シュミットさんなんか、カーターさんがふきげんな顔をしておったって何も構わず飛び出していってブレジネフといわゆる東方外交というか、宥和外交をどんどんお進めになる、日本のハト派なんか顔負けのような宥和外交をおやりになる。
西ドイツにおきましては、東方外交と並ぶ世界の緊張緩和のための政策。アメリカにおきましては、民主主義政治原理の擁護と、西側の安全保障。こういうふうに、人道的、道義的な理念にあわせて、納税者の理解といいますか、納得を得るための国民コンセサスというのがほぼ固まってきつつあるというのが各国の情勢ではなかろうか、こう思うわけでございます。